蓮如上人物語 〜燎原の火の如く〜
蓮如上人のご生涯
(4)吉崎炎上
蓮如上人のお徳に引かれ、北陸一帯の人々が吉崎御坊へ参詣するようになると、他宗、他派の僧侶たちの、ねたみ、そねみを買うようになりました。
彼らは、政治権力と結託して、吉崎を弾圧しようとしました。権力者としても、自己の身辺に、強大な勢力が生まれるのを好みません。
時代は乱世。都は、戦の巷と化し、越前、加賀とて、戦乱の圏外ではありませんでした。何が起きても不思議ではない情勢だったのです。
不穏な空気が漂う中、ついに大事件が起きました。
文明六年(一四七四)三月二十八日、吉崎御坊が炎上、焼失してしまったのです。
この時、蓮如上人のお弟子である本光房了顕が、親鸞聖人直筆の『教行信証』証の巻を命がけで守り、殉教したというエピソードが残っています。
火災の原因は何だったのでしょうか。失火ともいわれますが、当時の状況から放火の疑いが強いといえます。
人々の心には、本光房了顕の殉教が強烈に焼きつきました。「了顕に続け」と、門徒同朋の、信仰のエネルギーは、再建に向けられたのです。
かくて、再建工事は、驚くほど急ピッチに進み、二ヵ月後には、以前にもまして立派な吉崎御坊が完成しました。
ある日、お弟子が蓮如上人に申し上げました。
「日々、参詣者が増えていきます。素晴らしい繁昌ぶりです。仏法は盛んになりました」
だが、上人は、否定されました。
「一宗の繁昌と申すは人の多く集り威の大いなる事にてはなく候、一人なりとも人の信を取るが一宗の繁昌に候」(御一代記聞書一二二)
「浄土真宗の繁昌というのは、人が多く集まり、威勢がいいことではない」
と断言されています。誰でも、人が少ないより多い方が「繁昌」と思うのが当然でしょう。常識を真っ向から破っておられるのです。
では、どうあるべきなのでしょうか。
「一人でも信心獲得することが、浄土真宗の繁昌なのだ」
と説かれています。
どれだけ参詣者が増えても、信心決定する人がなければ繁昌とはいえないのです。他力の信心を獲て、この世からまことの幸福に救い摂られる人が一人でも多く現れてこそ、「浄土真宗の繁昌」なのだと、蓮如上人は教えられています。
当時は、秀吉、家康の天下統一から、百年以上もさかのぼる乱世で、各地で、激しい権力争いが展開されていました。
蓮如上人は「紛争に加担してはならぬ」と厳戒しておられましたが、御心に反し、本願寺門徒は、加賀(石川県)の政権争いに巻き込まれたのです。吉崎御坊の存亡のみならず、蓮如上人のお命にまで危機が迫ったのです。上人は、やむなく吉崎を脱出されました。この時、上人六十一歳、吉崎でのご教化は、わずかに四年間でした。
蓮如上人が去られて数日後、加賀の守護・富樫の軍勢が、吉崎御坊へなだれこみました。血のにじむ浄財で再建された御坊は、跡形もなく破壊されてしまったのです。
京都に次いで、吉崎でも。蓮如上人のご心痛は、いかばかりであったでしょうか。。
燎原の火の如く 〜蓮如上人物語〜