蓮如上人物語 〜燎原の火の如く〜

蓮如上人物語

蓮如上人のご生涯


(3)拠点を越前・吉崎へ

 文明三年(一四七一)の初夏、蓮如上人は、弾圧の危険の多い近江(滋賀)から、北陸へ向かわれました。布教拠点を、越前(福井)の吉崎へ移されたのです。

 この時、破壊された本願寺から大切に運び出された「親鸞聖人の御真影」は、大事をとって、大津の三井寺に預けられました。

「吉崎というこの在所、すぐれておもしろき間、年来虎狼の棲みなれしこの山中をひき平げて、七月二十七日より、かたのごとく一宇を建立し……」
『御文章』の一節です。まさか、虎や狼は住んでいなかったでしょうが、荒れたるにまかせた低い山でした。

 蓮如上人がご到着になって間もなく、のみ、のこぎり、つちの音が、辺りのしじまを破って響き始めました。

 吉崎御坊の建立には、柱なども、年数を経た巨木をあてねば、重い屋根を支えることはできないなどのことがあって、莫大な資金や物資が必要でした。ところが、近郷近在の熱烈な真宗門徒のご報謝で、驚くべき短期間で成就したのです。

 かくして、三ヵ月あまり。本堂ができかけたころには、早くも、参詣者でごった返したのです。こうなっては、蓮如上人も、まだ未完成の本堂にお出ましになって、ご説法を始められたといわれます。

 水面に投じた波紋が広がるがごとく、越前、加賀、能登、越中の北陸地方はいうまでもなく、越後(新潟)、信濃(長野)、出羽・陸奥(東北)からも、真実の殿堂が完成したと伝え聞き、日ごとに参詣者が増していったのです。

 たちまち問題になったのは、宿舎不足でした。吉崎御坊は、野中の一軒家みたいなもの。越前や加賀の人でさえ、日帰りの参詣は困難でした。泊まり切れない人は、本堂の周辺か、雑木林で野宿するしかなかったのです。

 必要に迫られて登場するのが、各地の末寺の出張所兼宿泊所の役目を持つ「多屋」でした。旅館とは違い、あくまで自分の寺の門徒を宿泊させる所で、僧侶が運営していました。これを「多屋の坊主」といいました。また、その妻を「多屋内方」といいました。多屋の坊主は、参詣者の案内役を務め、妻は宿泊の世話をしたのです。

 わずか一、二年のうちに、吉崎御坊周辺に二百近い多屋ができたといいます。虎や狼が住むといわれたさびれた北陸の一寒村が、あっという間に、一大仏法都市に変貌したのです。

「あら不思議や、一都に今はなりにけり。そもこれは、人間のわざともおぼえざりけり。ひたすら仏法不思議の威力なりしゆえなり」(帖外御文)

 真宗再興の大盤石が、この時に築かれたのです。

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