蓮如上人物語 〜燎原の火の如く〜

蓮如上人物語

蓮如上人のご生涯


先鋭的布教メディア『御文章』を駆使される、波乱に満ちたそのご生涯

 浄土真宗の「中興の祖」と仰がれる蓮如上人は、明応八年三月二十五日、八十五歳で、浄土へお還りになりました。

 蓮如上人のご一生は、あまりにも激しく、劇的で、生命の危機に何度もあっておられます。一体、何のためのご苦労であったのでしょうか。それは、親鸞聖人のみ教えを、正しく、一人でも多くの人にお伝えする以外にはなかったのです。

 その波乱のご生涯を振り返ってみましょう。

(1)わずか数年で大教団へ

「参詣の人、一人もみえさせたまわず」(本福寺由来記)

 蓮如上人がお生まれになった頃の本願寺は、まさに、さびさびとした状態でした。
 本堂の広さは、わずか三間四面(約十八畳)。上京した門徒が、さびれ切った本願寺を眺めて失望し、参詣者の多い真宗他派の仏光寺へ鞍替えした例もあったほどです。

 しかし、蓮如上人が、四十三歳で、本願寺八代法主に就任されるや、がぜん、様相が一変しました。数々の弾圧にあわれながらも、浄土真宗は、我が国最大の仏教教団に発展するのです。

 真宗再興の大事業は、まず、近江(滋賀)一帯の布教から始められました。

 蓮如上人のご布教に、『御文章』の果たした役割は、実に、大きなものがあります。

『御文章』は、『御文』ともいわれ、蓮如上人ご自身が、親鸞聖人のみ教えを分かりやすく、平易な文章で書かれたお手紙です。門徒の集会の際に読み上げられ、文字の読めない人たちにも大きな感銘を与えました。
 しかも、一通の御文章は、次々に書き写され、数十、数百にふくれ上がってゆきます。それは同時に、数十、数百の蓮如上人が、各地で布教活動されているのと、同じ効果をあげることになるのです。

 蓮如上人は、生涯に数百通の御文章を書かれたといわれます。この中から、八十通を選んで編集されたのが、朝晩の勤行で拝読している『御文章』です。

 最初の御文章は、金森の道西の願いに応える形で書かれました。

 金森は琵琶湖東岸に位置し、蓮如上人が法主になられる前から法話をされていた所です。琵琶湖周辺には、金森のように、門徒が集う道場(末寺)が多くできていました。漁民、職人、商人、農民と、あらゆる階層の人々が、仕事を終えてから道場に集まり、御文章を拝読して、信心の沙汰をするという会合が、いくたびも繰り返されていたことでしょう。

 親鸞聖人の教えを知らされた人々は、友人、知人に、熱烈に仏法を伝えました。法の輪が、ますます拡大していったのです。

 しかし、この急激な発展は、当然ながら、他宗、旧仏教の、ねたみ、反発を買いました。特に、近江(滋賀)に地盤を持つ比叡山延暦寺を大きく刺激し、弾圧の危機が、日ごとに高まっていったのです。

次 (2)命がけのご布教 寛正の法難

 

燎原の火の如く 〜蓮如上人物語〜